全奏部の巨大なエネルギーと弱音部の陶酔的な響きの対比はフルトヴェングラーに通ずる美術的センスでまとめている。ごつごつした肌触りの異彩を放っている。
通販レコードのご案内《仏フレッシュ・ラベル濃緑文字盤 オリジナル》FR PATHÉ PL9710 ホーレンシュタイン ヤナーチェク・シンフォニエッタ
- 両端楽章の遅さはこの曲の最長記録ではなかろうか、かなり個性的なヤナーチェク演奏だが、それでも緊張感が持続し間延びしないのはさすが。表情はたっぷりついているのに客観的な見通しの良さがホーレンシュタインの不思議なところで、レッグがカラヤンと目指したことを継承するのに相応しいと感じていたのだろう。ひたひたと音楽が伝えたい事を語りかけてくる。
透明で明晰なブルックナーは、今でも存在意義を主張できるほどだ。本盤でもそれがわかる、彼のマーラーやブルックナー同様に、悠久の大河にも似た巨大な音楽が繰り広げられています。
巨大なスケールと濃厚な情感表現で知られるホーレンシュタイン(1898〜1973)は、マーラーやブルックナーに早くから取り組み、その普及に尽力した功績でも有名。現在でも重要なロシア生まれの指揮者たち ― エウゲニー・ムラヴィンスキー、キリル・コンドラシン、イーゴリ・マルケヴィッチ、ヤッシャ・ホーレンスタインら ― は尊敬されてはいるけれども、国際的な影響をまずほとんど及ぼしていない。ムラヴィンスキー、コンドラシン、マルケヴィッチのチャイコフスキー、ショスタコーヴィッチ、ベルリオーズなどでは今も決定的名盤が記憶を呼び覚ましてくれるが、ホーレンシュタインにはマーラーぐらいが機会となる程度。
ヤッシャ・ホーレンシュタインは現ウクライナのキエフ生まれ。ステレオ録音が隆盛を迎える直前の1973年にアメリカで没した。6歳の時一家でロシアを離れ、ケーニヒスブルクとウィーンで音楽を学んだ。ブッシュ、マルクス、シュレーカーなどの教えを受けた後ベルリンでフルトヴェングラーの助手となって経験を積む。1925年にマーラーの交響曲第2番を指揮してウィーンにデビュー。28年にデュッセルドルフ市立劇場の首席指揮者となる一方ヨーロッパ各国に客演。33年にナチスに追われてドイツを離れ、37年よりモンテ・カルロのロシア・バレエ団指揮者。翌年パレスチナを経てアメリカに渡る。戦後は主にウィーンで活躍。晩年はロンドンで活躍した。スケールの大きな正攻法の重厚な芸風を聞かせたが、指揮者としては不遇で録音にも恵まれなかった。しかし晩年の録音がまとまっており、中でもロンドン交響楽団とのマーラー交響曲第1番、第3番は代表作と言える。他にブラームス第2番、ニールセン第5番などのライヴがあった。スペシャリストとして知られたマーラーでは他にロンドン交響楽団とのマーラー第4番、ブラームス第1番などがあった。
LP初期からクラシック・ファンに愛好されてきたアメリカの VOX レーベルは1945年創立。クレンペラーやホーレンシュタイン、ブレンデルやクラウス、クリーンなど欧米の一流アーティストによる録音を数多く所有、いずれも香り高く音楽愛好家の渇を癒す個性的演奏揃い。DECCAやPHILIPSが ― 英EMIはまだ懐疑的だった ― ステレオ録音を本格的に行う直前で、モノラル録音であるのは致し方無い。それほど数は多くは無いもののレコーディングにも熱心に取り組み素晴らしい成果を遺したヤッシャ・ホーレンシュタイン。彼の音楽は一言でいって、クレンペラーの構成感と、ワルターの豊かな歌をあわせ持った演奏。VOXの看板指揮者だった彼を、名プロデューサーは度々EMIに引き抜こうとしている。それがかなわず、クレンペラーがカラヤンの後釜になったことは有名な巨匠伝説。本盤は、米 VOX がウィーンに出向いてレコーディングをしていた時代のレコード。《シンフォニエッタ》はフランス国立放送管弦楽団との1952年2月録音がある。
巨大なスケールと濃厚な情感表現で知られるホーレンシュタイン(1898〜1973)は、マーラーやブルックナーに早くから取り組み、その普及に尽力した功績でも有名。現在でも重要なロシア生まれの指揮者たち ― エウゲニー・ムラヴィンスキー、キリル・コンドラシン、イーゴリ・マルケヴィッチ、ヤッシャ・ホーレンスタインら ― は尊敬されてはいるけれども、国際的な影響をまずほとんど及ぼしていない。ムラヴィンスキー、コンドラシン、マルケヴィッチのチャイコフスキー、ショスタコーヴィッチ、ベルリオーズなどでは今も決定的名盤が記憶を呼び覚ましてくれるが、ホーレンシュタインにはマーラーぐらいが機会となる程度。
ヤッシャ・ホーレンシュタインは現ウクライナのキエフ生まれ。ステレオ録音が隆盛を迎える直前の1973年にアメリカで没した。6歳の時一家でロシアを離れ、ケーニヒスブルクとウィーンで音楽を学んだ。ブッシュ、マルクス、シュレーカーなどの教えを受けた後ベルリンでフルトヴェングラーの助手となって経験を積む。1925年にマーラーの交響曲第2番を指揮してウィーンにデビュー。28年にデュッセルドルフ市立劇場の首席指揮者となる一方ヨーロッパ各国に客演。33年にナチスに追われてドイツを離れ、37年よりモンテ・カルロのロシア・バレエ団指揮者。翌年パレスチナを経てアメリカに渡る。戦後は主にウィーンで活躍。晩年はロンドンで活躍した。スケールの大きな正攻法の重厚な芸風を聞かせたが、指揮者としては不遇で録音にも恵まれなかった。しかし晩年の録音がまとまっており、中でもロンドン交響楽団とのマーラー交響曲第1番、第3番は代表作と言える。他にブラームス第2番、ニールセン第5番などのライヴがあった。スペシャリストとして知られたマーラーでは他にロンドン交響楽団とのマーラー第4番、ブラームス第1番などがあった。
LP初期からクラシック・ファンに愛好されてきたアメリカの VOX レーベルは1945年創立。クレンペラーやホーレンシュタイン、ブレンデルやクラウス、クリーンなど欧米の一流アーティストによる録音を数多く所有、いずれも香り高く音楽愛好家の渇を癒す個性的演奏揃い。DECCAやPHILIPSが ― 英EMIはまだ懐疑的だった ― ステレオ録音を本格的に行う直前で、モノラル録音であるのは致し方無い。それほど数は多くは無いもののレコーディングにも熱心に取り組み素晴らしい成果を遺したヤッシャ・ホーレンシュタイン。彼の音楽は一言でいって、クレンペラーの構成感と、ワルターの豊かな歌をあわせ持った演奏。VOXの看板指揮者だった彼を、名プロデューサーは度々EMIに引き抜こうとしている。それがかなわず、クレンペラーがカラヤンの後釜になったことは有名な巨匠伝説。本盤は、米 VOX がウィーンに出向いてレコーディングをしていた時代のレコード。《シンフォニエッタ》はフランス国立放送管弦楽団との1952年2月録音がある。
ウィーン・プロ・ムジカ管弦楽団の名義は、ここではウィーン交響楽団の変名。
ごつごつとした髪を振り乱しての精力的な指揮ぶりで聴かせる全奏部での爆発的なエネルギーの発散と緊張感の持続で聴かせる弱音部での陶酔的な響き。 ― 近未来的な響きを追究した音楽を大局的な視点での構成の確かさとを感じることが出来ます。彼の指揮者としての技量を物語るエピソードして、イギリスBBCが1958度の予算消化のため、急きょマーラーの交響曲第8番の演奏が計画された。「千人の交響曲」と称される膨大な演奏者を必要とする作品を、わずか半年の準備と総練習なし、しかもホーレンシュタイン自身初めて振るというとんでもない条件の元、1959年3月20日、それこそぶっつけ本番で成功させたというのがある。
ホーレンシュタインはフルトヴェングラーの助手をしていたことで、バルトーク、ヤナーチェク、 ニールセンとの交友を持った。 1927年にフランクフルトで国際現代音楽協会のフェスティヴァルが行われ、このときはバルトークをソリストに迎えてフルトヴェングラー指揮でピアノ協奏曲第1番の初演などが行われたのですが、ホーレンシュタインはこの時フルトヴェングラーのための下稽古を行った。オーケストラはフランクフルト歌劇場のオーケストラで、7月1日にフルトヴェングラーがバルトークとニールセンの5番を振った他、ヘルマン・シェルヒェンとワルテ・ストララムが他の曲を指揮した。3日間の間にホーレンシュタインはバルトーク、ヤナーチェク、ニールセンと会った。
『バルトークはヴェーベルンのハンガリー版で、非常に几帳面で、音楽的原則の人で、人間的というよりも生きた百科事典のような人だった。ニールセンは逆に人間的以外の何者でもなかった。ヤナーチェクは見た目、オーストリアかチェコの旅館か喫茶店のオーナーという感じで、ウェストコートにチェーンを付けていたりして、とてもブルジョワ、中流 ― 下の方だが ― という感じだった。 私がフルトヴェングラーのためにリハーサルをしているとき、ヤナーチェクは後ろの方に坐っていたが、私はコンサート会場の建物の支配人か誰かと思っていた。初日はオペラハウスでのクレメンス・クラウス指揮のブゾーニ『ファウスト博士』だったのだが、その後レセプションで遅くなってから紹介されて、はじめてヤナーチェクだと知った。リハーサルの時は休憩の時も話し掛けて来ず、私やニールセンを無視して坐っていたからだ。』と回想している。
そして、フルトヴェングラーが到着してから行なった2回のリハーサルは、フルトヴェングラー立ち会いのもと行われた。ホーレンシュタインはフルトヴェングラーに見てほしくて、オーケストラを何度も止めて注意を出していたが、後でフルトヴェングラーに「君は一曲を通して演奏することの大切さを過小評価している」と注意された。また、1930年代にはデュッセルドルフでリヒャルト・シュトラウスと知り合い『氷のように冷たい。氷のように冷たい音楽の皇帝。』と彼に感想を持った。この時、リヒャルト・シュトラウスから受けた注意を彼が意図していたことを理解するのにホーレンシュタインは25年かかった。しかしリヒャルト・シュトラウスは本当にそうすることを言ったのではなく、指揮する際の目の重要性を強調したのだ。
ホーレンシュタインはフルトヴェングラーの助手をしていたことで、バルトーク、ヤナーチェク、 ニールセンとの交友を持った。 1927年にフランクフルトで国際現代音楽協会のフェスティヴァルが行われ、このときはバルトークをソリストに迎えてフルトヴェングラー指揮でピアノ協奏曲第1番の初演などが行われたのですが、ホーレンシュタインはこの時フルトヴェングラーのための下稽古を行った。オーケストラはフランクフルト歌劇場のオーケストラで、7月1日にフルトヴェングラーがバルトークとニールセンの5番を振った他、ヘルマン・シェルヒェンとワルテ・ストララムが他の曲を指揮した。3日間の間にホーレンシュタインはバルトーク、ヤナーチェク、ニールセンと会った。
『バルトークはヴェーベルンのハンガリー版で、非常に几帳面で、音楽的原則の人で、人間的というよりも生きた百科事典のような人だった。ニールセンは逆に人間的以外の何者でもなかった。ヤナーチェクは見た目、オーストリアかチェコの旅館か喫茶店のオーナーという感じで、ウェストコートにチェーンを付けていたりして、とてもブルジョワ、中流 ― 下の方だが ― という感じだった。 私がフルトヴェングラーのためにリハーサルをしているとき、ヤナーチェクは後ろの方に坐っていたが、私はコンサート会場の建物の支配人か誰かと思っていた。初日はオペラハウスでのクレメンス・クラウス指揮のブゾーニ『ファウスト博士』だったのだが、その後レセプションで遅くなってから紹介されて、はじめてヤナーチェクだと知った。リハーサルの時は休憩の時も話し掛けて来ず、私やニールセンを無視して坐っていたからだ。』と回想している。
そして、フルトヴェングラーが到着してから行なった2回のリハーサルは、フルトヴェングラー立ち会いのもと行われた。ホーレンシュタインはフルトヴェングラーに見てほしくて、オーケストラを何度も止めて注意を出していたが、後でフルトヴェングラーに「君は一曲を通して演奏することの大切さを過小評価している」と注意された。また、1930年代にはデュッセルドルフでリヒャルト・シュトラウスと知り合い『氷のように冷たい。氷のように冷たい音楽の皇帝。』と彼に感想を持った。この時、リヒャルト・シュトラウスから受けた注意を彼が意図していたことを理解するのにホーレンシュタインは25年かかった。しかしリヒャルト・シュトラウスは本当にそうすることを言ったのではなく、指揮する際の目の重要性を強調したのだ。
1955年9月15〜18日のウィーンでのセッション録音。
通販レコード詳細・コンディション、価格
プロダクト
Pathé/Vox PL 9710 - Leos Janáček - Sinfonietta / Taras Bulba - Jascha Horenstein, The Pro Musica Symphony Orchestra Vienna
- レコード番号
- PL9710
- 作曲家
- レオシュ・ヤナーチェク
- オーケストラ
- ウィーン・プロ・ムジカ管弦楽団
- 指揮者
- ヤッシャ・ホーレンシュタイン
- 録音種別
- MONO
FLESH WITH DARK GREEN LETTERING, MONO, Release 1956。
コンディション
- ジャケット状態
- M-
- レコード状態
- EX-
- 製盤国
- FR(フランス)盤
オリジナル
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